iPhone 2.0.1にアップデートしたら充電できなくなった件。(解決?)
正確にいうと、iPhone 3Gのソフトウェアを2.0.1にアップデートしてからPowerBook G4との接続中に充電できなくなったのだが、これは結構面倒な事態だ。これまで同期と充電を1度に行えていたのに、それぞれ別々に繋ぎ直さなければならなくなった。仕事場のeMacで試してみたところ、普通に USBポートに繋いで充電できたので、どうやらPowerBook G4側に問題がある様子。
というわけでいろいろ検索してみたところ、クマデジタルさんの「iPhoneの充電に必要なのは600〜650mA [livedoor.jp]」という記事を発見。つまり、USBポートが通常バスパワーとして出力する500mAでは、実は電源を入れたままのiPhone 3Gは充電できないのだ。そして、どうやらうちのPowerBook G4は馬鹿正直に500mA以下しか出力していないらしい。まあ、システムプロファイラが正確な数値を返しているとも限らないが。
この問題って、ほかの人の環境では起きていないのだろうか。もしかして、ほかのiPhoneユーザはみんなインテルMac以降かそれと同等以上のスペックのWindows PCを使っているってこと? そんなことはないだろう…と、思うんだけど。もしくは何か解決策があるのだろうか。それとも何かの勘違い? 何か変化があったら追記予定。
(8/7追記)寝る前に繋いだまま放置して起きてみると、今日は、なぜか、充電が上手くいっていた模様。「何かの勘違い」説が有力になってきた。単にPowerBook G4の機嫌が悪かっただけなのか。上手くいかなかった時との間にやったことといえば、いったんiPhoneのケーブルを外してUSBカードリーダを接続、コンパクトフラッシュから写真を読み込んだ後にまたiPhoneのケーブルを挿したことくらい。システムプロファイラの表示は「500mA」で変化なし。
ちなみに右上の写真は
秋葉館で買ってきたパワーサポートの「Airジャケットセット for iPhone 3G [pawasapo.co.jp]」とiPhoneの間に、数カ月前にあきばお〜の何号店かで入手したオリゼーのシールを挟んで撮ったもの。かもされiPhone。
Airジャケットは、想像していたよりもさらに薄い感じで、装着した状態でも手に持った感じはあまり変わらない。また、脱着が簡単な割にパシっとハマるので、ポケットや鞄に入れていたらいつの間にかズレていた、というような心配もない。まあ、付属のドックコネクタカバーを早速なくしてしまったのはご愛嬌ということで。シリコンカバーは埃が付くので嫌、かといって革製のケースも仰々しくてちょっと…という人にはとてもおすすめ。
スカイ・クロラ:変化を嫌う世界の中の、変化に嫌われた存在。
今日は早めに仕事を切り上げて(といっても21時だが)、レイトショーで「スカイ・クロラ」を上映している映画館「新宿バルト9」へ。終映時間は終電後なので、こういう時に自転車は便利。運動不足の解消にも。今後もたまに利用しようと思った。
以下、ネタバレなし(のつもり)のおすすめポイントなど。*1
ストーリーに関係のないおすすめポイント1
エースコンバットシリーズが好きなら空戦シーンだけでも見て損はない。加速、ロール、急減速、上昇、急降下。風を切るプロペラと焔の弧を描く機銃。断続的に入る交信。数十機の戦闘機が乱れ合いながらドッグファイトを繰り広げる中、粛々たる侵攻こそが任務とばかりに前進する対地攻撃機。そして、「絶対に墜とせない」エース。
物語のキーワードは「変化」との距離
戦闘、事故、その他の要因によって致命傷が加えられない限り、ティーンエイジの外見のまま変化せず死なない「キルドレ」たちが「管理された戦争」を続ける平和な世界。スカイ・クロラの主要な登場人物である4人のキルドレは、それぞれ「変化」に対するスタンスの違いから行動し、それが物語をドライブしていく。
変化の切っ掛けを見出しあらゆる手段を以て変化を求める一人、変化を拒絶した日々を変化のないままに受け入れて楽しむ一人、変化の糸口に気付きながらも独りでは前へ進めない一人、変化のないかのような日常の中にも確かに存在する変化を肯定する一人。
平和で安定した世界は変化を嫌う。しかし、ヒトは年齢を重ね、ゆっくりと変化していく。それは避けられない。年々歳々花相似、歳々年々人不同。…ただし、変化を嫌う世界の中の、変化に嫌われた存在である、キルドレを除いて。物語上、彼らの行動様式は、主観的には「変化のない」日常を送っているヒトが、どのように行動するのかを凝縮したものとなる。いや、ならざるを得ない。逆に、老いとは無縁のキルドレ自身の主観では、薄く引き伸ばされた遷移なのかもしれないけれど。
観終わった後、誰のように生きたいと思うだろうか。そして誰と生きたいだろうか。自由とは呼べない空を這う彼らは、それを問うている…の、かも、しれない。
ストーリーに関係のないおすすめポイント2
原作者である森博嗣のローマ字表記が「MORI Hiroshi」だったり(他の人は「Mamoru Oshii」のような表記)、空冷のオープンタイプ・ポルシェが登場したり、発音でも明らかに言葉尻の長音を削っていたりと、原作(および森博嗣作品)読者なら思わずニヤりとするポイントが散在。…しかし、読み返さないと原作の細部をすっかり忘れている自分。
そして、まだ「スカイ・クロラ」を観ていない人へ
映画は「最後まで」座って観ましょう。
*1:もしネタバレだと思う箇所があったら教えてください
GmailがiPhone用のメールアドレスとして使えないたった1つの理由。
それは、「ケータイ風のメールを送れない」ということ。少なくとも自分の環境では。
経緯
先日、念願の自分用iPhoneを手に入れた。そして、以前のケータイからのアドレス帳の移行など諸々のセッティングを行った上で、iPhone用のメールアドレスとして何を使うかということで以下のサイトを参考にしながら悩んでいた。
- iPhone 3G Wiki*[wikiwiki.jp]
選択肢は大まかに分けて4つ。MobileMeとYahoo.comとGmail、そしてi.softbank.jp。そのうち前の2つは個人的な理由で却下。MobileMeは、その前身の.Mac時代からPC用のメインメールアドレスとして利用しているので、そこにケータイ向けのメールが混ざるのは好ましくないから。Yahoo.comのアドレスは、Flickr用のアカウントとして取得したものがあるが、ケータイのメールアドレスとして意識して取ったものではなく、また2つめを取る気はないから。
そして残ったのは以下の2つ。
サービス名 | 保存容量 | 保存期間制限 | プッシュ機能 | IMAP | WEBメール |
---|---|---|---|---|---|
Gmail | 数GB | なし | × | ○ | ○ |
i.softbank.jp | 100通まで | 30日 | ○(画面通知のみ) | ○ | × |
見事にどっちもどっちといった感じなので、保存性とプッシュ機能を両立させるため、先のサイトを参考に「Gmailからi.softbank.jpへの転送」を選択。iPhoneで両方のメールアカウントを設定し、i.softbank.jpの受信を切る。メール本文の受信を切っても受信通知は送られてくるのでこれでOK。
そう思って、お知らせメールをBCCで送るために、MacのMail.appでもGmailのアカウントを設定。ケータイメール風に、内容が「挨拶+iPhone買った+メールアドレス変更おねがい+挨拶」で、改行が1回くらいのメールを数十人に送ろうとすると…送れない。どうやらGmailがスパム対策のために送信をブロックしているらしい。(エラーメッセージに記載されていたヘルプページ[google.com])
しかたがない(この時点では人数が問題だと考えていた)ので、MobileMeのアカウントから、内容を「GmailのアドレスをiPhoneで使うのでよろしく」的なものに変更して送信…したまではよかったのだが。
朝になって(あるいは夜のうちに)、ちらほらメールが返ってきていたので、それに返信しようとiPhoneに設定したGmailアカウントからメールを送ろうとすると、件のエラーメッセージが出て、「お前のメールはスパムっぽいから送らせてやらない」といわれる。相手がケータイのメールアドレスでも、PC用のメールアドレスでも同じ。どうやらGoogleは、「送信先が1人であっても、改行がや段落分けが少なく、短めのメール」をスパムとして判断しているらしい…って、ケータイ風のメールは全滅じゃないか。
MobileMeの開始は7月8日。…じゃないかな。
勝手な予想なので、公表した瞬間に外れるかもしれないが。また、7月8日というのはもちろん米国(西海岸)時間だから、日本だと9日深夜。そう考える根拠は2つ、補強要因が1つ。
まず、補強要因からいっておくと、そろそろサービスインしないと、iPhone 3Gの発売に間に合わないから。さすがにiPhoneが発売されてから「ごめん、MobileMeができてないからプッシュ型サービスはムリ」とはアップルもいえないでしょう。…可能性がゼロではないところがあの会社の恐ろしいところだが。
さてそれでは1つめの根拠。それは、7月8日がiPhone発売前の最後の火曜日だから。「アップルは大きな発表をだいたい火曜日にやる(イベントのキーノートなんかも含めて)」というのは、アップル好きの人やひどいマカーにとっては常識的な知識かもしれませんが、そうなんです。テストには出ませんがコレ重要。
次に2つめの根拠だが、これはちょっとオリジナル(というほどでもないか)。というのも、先日.Macのアカウントにログインして、メールのエイリアス*1を整理していたところ、エイリアスの追加が「7月8日以降」に制限されてしまったのだ。正確には、その整理中に、何か面白いエイリアスが取得できないかと思っていろいろ試していたところ「ウィリアム・ゲイツ3世」*2というエイリアスが取得できてしまった次の瞬間、「これ以上エイリアスを追加したいなら7月8日以降」と表示された。これが3日後、とかなら怪しくも思わなかっただろうが、いきなりの日付指定だ。しかも、MobileMeに移行してしまったら「mac.com」のアドレスが取得できなくなるという予想が前提にあっての行動中だったので、「これは…」と思った次第。
さて、実際にどうなるかはこの[保存する]ボタンを押した次の瞬間からのお楽しみ。結果をいち早く知りたい人は、これ[apple.com]に登録すればいいじゃない。別におすすめしてるわけじゃないんだからね。
世俗主義は「ひとにやさしい」か?
宗教紛争が絶えないこの世界にあって、世俗主義(政教分離)は、決して銀の弾丸ではないけれど、患者を少しずつ快方へ向かわせる処方箋の一つにはなると思っている。世俗主義という言葉が教条的に思えるのであれば、多元主義*1といってもいいだろう。
近代以降の新興の信仰はもちろんのこと、キリスト教やユダヤ教、イスラム教、仏教、神道、ヒンドゥー教、ジャイナ教、儒教、道教などなどの伝統宗教も、それぞれ基本的に相容れない部分を持っている。(もちろん「空飛ぶスパゲッティモンスター教」も同じである。)また、共産主義のような宗教の否定や無神論も、相容れなさでは宗教と同様か、それよりも性質が悪い。
そうした宗教の溢れる世界にあって世俗主義は、宗教的には譲りようのない対立軸に対して、公の場から「ご遠慮願う」ための道具(理性)である。ただ、それもまた行きすぎると教条主義に陥りがちなので、信仰(内心)の自由や表現の自由とセットにして処方しておくと良いでしょう。つまり、信仰が異なる相手に対するバファリン*2である。
その点に関しては、日本が象徴的な例だと思うのだが、多くの人が神社へ行けば柏手を打ち、寺へ参れば南無々々と手を合わせ、クリスマスを楽しみつつ、それに矛盾を感じない。宗教の世俗化ここに極まれり、という感じである。そのような社会では、教条的な人間や集団は多数派たりえない(はずではあるが、何かのはずみで多数派が沸騰する可能性はある)。
しかし逆に、この世俗主義の進展が、確固とした自分の信仰を持つ人に対して距離を感じてしまう人々の増加にも繋がっているのではないか。まあ、「触らぬ神に祟りなし」というのも一種のやさしさなのかもしれない。
…と、ここまでなら、普段はあんまり意識してないかもしれないけど、世俗主義って結構いいでしょ? という話なのだが、あんまり世俗主義が進展しすぎると、良くない面もあるのかなあ、と考えさせられたのが「承認・非承認」の問題である。(id:thir:20080629:p1)
宗教はその性質上「承認」を前提としている。相手は父と子と精霊だったり、アラー・アクバルだったり、YHWHだったり、仏様だったり、アフラ・マズダだったり、天国のご先祖様だったりするかもしれないが、「ほかの誰でもない私」を常に見てくれている(時には監視だったりもするかもね)がいるというのは、孤独に絶望を感じたときの一条の光になりえる。
また、同じ信仰を持つもの同士であれば、そのほかに何の共通項をもたなくても、信仰の一致ただそれだけで互いを承認できる。頼もしいことに、たいていの伝統宗教は、それ専門の人間も養成しているくらいだ。…寡聞にして、空飛ぶスパゲッティモンスター教の司祭の話を聞いたことはないが。
「宗教は心の弱いものにつけ入る」とは、よくいわれるし、そりゃまあ個人崇拝みたいなカルト宗教にハマる若者は助けないといけないとも思う。しかし、あまり積極的な性格じゃない人でも「承認」されることが難しくない装置として、世俗のイベント化に染まりきっていない伝統的な宗教があること、というのも意味のあることなのではないか、と発展した世俗主義の恩恵を受けるこの日本で考えてみた。
世界遺産への落書きとダブルスタンダード。
最近、イタリアの世界遺産「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Cattedrale di Santa Maria del Fiore)」*1への日本の大学生による2件の落書きがニュースとなった。(1,2[47news.jp])それに対する反応の多くは、軽率な行動に対する批判だったが、中にはそこが「すでに落書きだらけ」ということを以て擁護しているとも読める(そんなつもりはさらさらないのかもしれないけど)ものもあった。
確かにサンタ・マリア・デル・フィオーレ、特にその象徴である大円蓋(クーポラ)へ登る階段とその頂上には、落書きが多い。洋の東西を問わず、いくつもの言葉で落書きが書かれ、彫られている。*2しかし、そのことによって自分も落書きするということは正当化できない。また、dankogai氏がブログで言及[livedoor.jp]しているように、明らかに19世紀以前のものと思われる「ti amo(愛してる)」というような落書きも存在する。そしてどういうわけか、こちらの方は今回の大学生による落書きほど腹立たしくも悲しくもない。
どちらも落書きだという点からすれば、これは明らかにダブルスタンダードである。では、この2つを峻別しているものは何か。それは歴史的価値と書いた側の属性だろう。
例えば、どこそこの寺の仏像にそれを彫った仏師が残した落書きが見つかったという話がある。また、カンボジアのアンコール遺跡に16世紀の日本人が残した落書きが残っている。これらは、現代的な観点で見た場合、もはや単なる落書きではない。歴史資料としての価値を有している。
その点、19世紀の馬鹿ップルの落書きは、イタリア統一(1861年)前後の話であり、当時のイタリア半島人の往来を示す資料としての価値がないとはいえないが、それは落書きを肯定する根拠とするには少々薄い。もう一押し欲しいところ。そこで、落書きした彼らの属性を考えてみる。
19世紀イタリアの馬鹿ップルと21世紀(そう、21世紀である)日本の大学生は、どちらも「とおりすがり」であることに違いはない。しかし、19世紀のイタリア人(当然カトリックであることが類推される)にとって、サンタ・マリア・デル・フィオーレは文字通り「花の聖マリア聖堂」であり、そこにある種の敬意を抱きつつ愛の誓い(それが濃いか薄いかはこの際気にしない)を刻む意味は想像できる。逆に、航空輸送網の発達した21世紀に、気楽な観光気分でやってきた遠い異国の人間が、世界遺産として認知されている(ということぐらいは彼らも知っていたと信じたい)大聖堂に、いくら既存の落書きがあったとしても、そこに自分の名前を加えるノリは理解したくない。
そう、「理解したくない」のだ。結局のところ。何となく類推はできても。
*1:正確には、世界遺産「フィレンツェ歴史地区」の一部に指定されている建造物。