人は感情のみにて生きる(べき)にあらず。

 遺族感情を重視するあまり、被害者遺族にとって残酷とも取れる(しかし残酷かどうかを判断しているのは外部の「われわれ」である)質問を回避するのは、悪しき自主規制ではないのか。彼の確固たる意思を改めて明確にしたと評価するのなら、その質問は(好悪の判断は別にして)「良い」質問とはいえないだろうか。…まあ、それはさておき。
 たとえばの話。死刑廃止論者に向かって、「もし、あなたの家族(もしくは愛する人)が残虐に殺され、実行者たる人間は逮捕された後も反省した様子はない。それどころか犯意を否定してすらいる。それを赦せるのか。もし私だったら絶対に赦すことはできない」と、仮定を持ち出して感情に訴えるのは、自己の理性を否定したに等しいように思える。理性に基づいて構築される(べき)社会制度のありようと、個人の感情の充足とは別の問題であり、それが「世間(=多数派)的感情」ならばなおさらである。
 当事者たりえない人間が、当事者がはっきりと自分の主張を行っているにも関わらず、それを自分勝手に「代弁」してしまうのは、とても危険なことだと思いませんか。逆に、声のとても小さい人の代わりに「代弁」する存在は必要だと思うけれど。
 相変わらずの雑想を申し訳なく思いつつ投稿。