世俗主義は「ひとにやさしい」か?

 宗教紛争が絶えないこの世界にあって、世俗主義政教分離)は、決して銀の弾丸ではないけれど、患者を少しずつ快方へ向かわせる処方箋の一つにはなると思っている。世俗主義という言葉が教条的に思えるのであれば、多元主義*1といってもいいだろう。

 近代以降の新興の信仰はもちろんのこと、キリスト教ユダヤ教イスラム教、仏教、神道ヒンドゥー教ジャイナ教儒教道教などなどの伝統宗教も、それぞれ基本的に相容れない部分を持っている。(もちろん「空飛ぶスパゲッティモンスター教」も同じである。)また、共産主義のような宗教の否定や無神論も、相容れなさでは宗教と同様か、それよりも性質が悪い。

 そうした宗教の溢れる世界にあって世俗主義は、宗教的には譲りようのない対立軸に対して、公の場から「ご遠慮願う」ための道具(理性)である。ただ、それもまた行きすぎると教条主義に陥りがちなので、信仰(内心)の自由や表現の自由とセットにして処方しておくと良いでしょう。つまり、信仰が異なる相手に対するバファリン*2である。

 その点に関しては、日本が象徴的な例だと思うのだが、多くの人が神社へ行けば柏手を打ち、寺へ参れば南無々々と手を合わせ、クリスマスを楽しみつつ、それに矛盾を感じない。宗教の世俗化ここに極まれり、という感じである。そのような社会では、教条的な人間や集団は多数派たりえない(はずではあるが、何かのはずみで多数派が沸騰する可能性はある)。

 しかし逆に、この世俗主義の進展が、確固とした自分の信仰を持つ人に対して距離を感じてしまう人々の増加にも繋がっているのではないか。まあ、「触らぬ神に祟りなし」というのも一種のやさしさなのかもしれない。

 …と、ここまでなら、普段はあんまり意識してないかもしれないけど、世俗主義って結構いいでしょ? という話なのだが、あんまり世俗主義が進展しすぎると、良くない面もあるのかなあ、と考えさせられたのが「承認・非承認」の問題である。(id:thir:20080629:p1)

 宗教はその性質上「承認」を前提としている。相手は父と子と精霊だったり、アラー・アクバルだったり、YHWHだったり、仏様だったり、アフラ・マズダだったり、天国のご先祖様だったりするかもしれないが、「ほかの誰でもない私」を常に見てくれている(時には監視だったりもするかもね)がいるというのは、孤独に絶望を感じたときの一条の光になりえる。

 また、同じ信仰を持つもの同士であれば、そのほかに何の共通項をもたなくても、信仰の一致ただそれだけで互いを承認できる。頼もしいことに、たいていの伝統宗教は、それ専門の人間も養成しているくらいだ。…寡聞にして、空飛ぶスパゲッティモンスター教の司祭の話を聞いたことはないが。

 「宗教は心の弱いものにつけ入る」とは、よくいわれるし、そりゃまあ個人崇拝みたいなカルト宗教にハマる若者は助けないといけないとも思う。しかし、あまり積極的な性格じゃない人でも「承認」されることが難しくない装置として、世俗のイベント化に染まりきっていない伝統的な宗教があること、というのも意味のあることなのではないか、と発展した世俗主義の恩恵を受けるこの日本で考えてみた。

*1:確かそういう名前の種牡馬もいましたね。Pluralisme。

*2:半分はやさしさでできています。