Between political realness and political thoughts.

 今日、佐々木毅総長の最終講義を聞きに行った。
 おそらく日本一テレビに映っている教室であろう法学部25番教室は、僕が講義の開始15分前に到着したときにはどこかざわついた雰囲気をたたえていた。人が多い。あちこちに教授陣が点在している他、明らかに学生とは違う空気をまとった(後で聞いた話などから推測するに新聞記者だったのだろうか*1)人もいる。
 席を探して彷徨っていると、教壇正面の列の前から1/4ほどのところで友人に声を掛けられ、丁度良かったので近くに席を取る。そこでふっと左後ろを振り向けば政治学の教授がいてすこし驚いてみたり。そうこうしているうちに佐々木総長が到着、拍手。拍手。それが鳴り止んだ後に訪れたそわそわした静寂……。
 まず谷口助教授による佐々木総長の紹介があり、次に学部長による短い挨拶があり、そして「佐々木でございます」という、らしいといえばらしい第一声とともに最終講義が始まった──。
 …。
 ……という書き口では終わりが見えないので、メモを要約して起こす程度に。

 彼が学生時代を過ごした1960年代は、イデオロギーの生きていた時代だった。政治的現実=変革(=上からの権力の否定)という空気がまだ生き延びていたとも言えよう。しかし次第にイデオロギーが現実の反映ではないことが明らかになって行く時代でもあった。そうした時代に(だからこそ?)ヨーロッパの権力観に変革をもたらし(そして嵐を巻き起こし)たマキアヴェッリの散文的な政治権力の現実を学んだことが、彼の中に日本における権力観への関心が生じる原点となった。
 逆に70年代に入ると政治的現実は極端に安定化(=55年体制の安定化)してしまい、政治はそうした権力の安定構造の細密画的な実証研究によって理解可能であると思われがちになっていった。つまり、60年代には否定されていた権力が当然の前提として扱われるようになってしまった時代だった。
 このあまりに急激な政治学の環境変化は彼の中に前提化されたものへの懐疑、つまり現在前提として捉えられているもの(60年代:イデオロギー、70年代:権力)であってもそれほど強固なものではないのではないか、という知的違和感を生んだ。さらに、日本の政治システムと世界のそれを対比させたり、権力行使の制度として問題点は無いのかを考察することで、政治的現実がある確固とした構造を持ったものだとしても、それについて議論すること、政治的現実を相対化することの価値を感じるようになった。
 しかし、現実の政治・権力構造を制度的側面から検証することは、変化を予測させること(制度の問題点は是正されるべき)であるから、既存の制度を運用することで充足される政治的安定期を迎えていた日本では、そうした検証が盛んになろうはずも無かった。
 …そこに1989年が訪れた。
 中国では天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊する、無くならないと思っていたものが無くなる、強固に見えた政治的現実を上回る変革の現実が押し寄せ、ただ単に「強固だと思われる現実」に寄り掛かっていたアイデンティティは容易に揺るがされてしまい、政治的現実は運用の時代から制度的改革の時代へと移行し、今に至っている。
 ここまでたった40年程度の歴史を俯瞰しただけでも分かるように、政治権力は全能でも不能でもない。政治的現実の境界は不明確であり、権力や政治は可変的である。だからこそ、それについて思考することが必要とされ、現実の多様な側面を見せてくれる政治思想の数々が道具として意味を持つのだが、その「現実を見る」という行為は恣意性も限界も含んだ、困難で労苦を伴う行為である。そこで必要とされるのは、一度現在を両断してそれに満足してしまう頭脳ではなく、継続的でたゆまず思考する丈夫な頭脳であろう。それを忘れずに、政治的現実がどのように見えるのかを問い続けて欲しい。

 以下感想のようなもの。
 もう少しはっきりとした命題を受け取れるのかと期待していたので、その点では少々期待外れではあったけど、そうした命題がしばしば無批判に前提化されてしまうことへの懐疑を伝える内容であったこと*2を後でまとめながら考えてみると、自身が教官として過ごして来た年月を時代々々の変化と重ね合わせた、なかなか味のある最終講義であったように思える。以上。

*1:だったみたい[asahi.com]

*2:明確な命題を提示しないことが計算された演出であったとしたら凄いと思う…けれどそれは深読みが過ぎるだろうか