多すぎず、少なすぎず。適度に。

 意識しないうちは気にもならないのに、一旦気が付いてしまうと、そっちに気を取られて仕方がない存在がある。授業でよく一緒になる「あの子」…のことではなく、これ「、」つまり読点である。
 まず、読点の機能としては大きく二つの機能があるように思う。一つは「読点」という文字通り、音読・黙読両方の意味で文章を読むときに間を発生させる機能であり、もう一つは文章の流れを意図的に切ることによる文章構造理解のサポートを図る機能である。といっても実際に読点が使われる際には、この二つの機能を兼ね備えている場合が多いので、読点が二つに分類できる訳ではなく、傾向の問題である。
 そして、こうした読点の利用者としての自分も二通り存在する。読者としての自分と筆者としての自分である。ここに、あるディレンマが発生する。
 ただし、他人が書いた文章を読む場合は、読点が多すぎれば邪魔だと感じ、少なすぎれば歯切れが悪く感じるだけで、ディレンマは生じない。そこには読者としての自分しかいないからである。
 ディレンマは筆者としての自分を襲う。なぜなら、筆者としての自分は、必然的に最初の読者とならざるを得ないからである。筆者としての自分は、文章の意図を読者に明確に伝えるために、読点の文章構造理解をサポートする機能を重視し、読点を多用してしまいがちになる。その一方で、読者としての、なかんずく最初の読者としての自分は、筆者としての自分との同一性、つまり自分は自分の書いている内容を理解している(少なくともそのつもりで書いている)という記述行為の内包する本質的性格のために、文章構造の理解を促進するために筆者としての自分が置いた読点が、文章の流れを切ってしまう邪魔者に見えてしまうのである。
 このディレンマに無自覚なうちはいいが、一度これを感じてしまうと、自分の中の「筆者」と「読者」の折り合いを付けなければ文章は書けない。それならどちらを優先すべきかと考えると、これは「筆者」だろうと思う。エクリチュール(書かれたもの、の意)による伝達の不完全性を認識した上でなお、不特定多数の読者に意図を伝えることを目的とする「筆者」は、自己満足というゴールしか持たない「読者」より、そのエクリチュールにとって「生まれた意味」を(限定的ではあるにせよ)向上させてくれる存在だからである。
 かといって、自分の中の「読者」を殺してしまっては、書いていても楽しくないだろう。書いていても楽しくない、つまり書くことの魅力が減衰するということは、今度は「生まれ来るべき」エクリチュールが生まれないということにもなりかねない。それでは本末転倒である。
 だから結論*1としては…多すぎず、少なすぎず。適度に。*2

*1:分かって書いているので「結論になってないじゃないか」というコメントは勘弁してください。

*2:「筆者」の能力不足が引き起こすエクリチュールにとっての悲劇(=「筆者」の努力が逆方向に作用する場合)などに触れていないのは、この文章が試験勉強からの逃避的性格を持っているからです。あしからず(・∀・)