フィクションだとかノンフィクションだとか。

 今日はバイトの時間より少し早めに図書館に着いてしまったので、暇つぶしに新聞でも読んでみようと思い、入口を入って左の新聞閲覧スペースへ。そして偶々空いていた東京新聞夕刊の前に座り、おもむろに読み始める。
 一面トップはパウエル国務長官の辞任のニュース。まあそんなことはどうでも良くて(良くはないけど今日の本題からは遠くなるので)サクサク読み進めて(サクサクって言ってもTVKの…、って括弧書きが多すぎだなオイ)文化面へ到着。気になる人のために言っておくと、8面です。そこにはなんと…という程のことでもないけど北田さん(先生とお呼びした方がいいですか?)が、かの「電車男」について書いてオラレルではないですか。ちょうど図書館に行く前に友達と電車男の話をしていたので個人的にもタイムリー。…という訳で以下、感想とか反応みたいなものを。
 僕が電車男について知ったのは5月半ば、北田さんと同じようにまとめサイトを一気読みし、目に涙を溜めた。多分、その事実関係を疑うなんて考えもしない単純さでうるうるしていたことだろう。いい話だと思って、二人を祝福する気持ちでいっぱいになって。
 しかし「電車男の時刻表」[seesaa.net]を読んだ現在では半信半疑でも譲り過ぎ、おまけして二信八疑くらいの気持ちになった。確かに言われてみれば怪しい。この「時刻表」を鵜呑みにする訳ではないけれど、件のまとめサイトとも関連した状況証拠の数々を見た後では、この「電車男の物語」が事実であるとは信じられなくなってしまった。もちろん、真実であると言う人がいてもいいと思うし、証拠の数々にも2ch的素養がない人にはそれが証拠足りうるのかの判断が難しいものもある。でも僕の印象では限りなく黒に近いグレー。
 それでもまあ、今日の記事を読んで、それに反応して何か書こうと思うまでは「なんだ自作自演だったのか、がっかりー。それで金儲けするなんてねー」みたいなことしか考えてなかったです。ええ。何とも浅はかな自分がいますよ。
 その認識が一部(あくまで一部)変わったのは、記事の中の「ストーリーははっきり言って凡庸そのもの」という部分と、「『電車男』は物語ではなくパソコンの画面を通して繋がる人々の進行形のコミュニケーションの記録である」というくだりを読んでから。厳密に言えば『物語』ではない「電車男の物語」が、なぜ人を(なかんずくネットに親和性の高い人たちを)感動させたのか、という一点に焦点を当てるなら、電車男の書き込みが裏のあるフィクションであろうとなかろうと大した問題ではないのではないだろうか。つまり北田さんが言うように、私たち(敢えてそう言う)の感動が電車男エルメスのストーリーにではなく、彼らを応援する名無したちとの一体感に感動を誘われたのだとすれば、その限りにおいて「中の人」の作為は問題でなくなる(さらに言えば「中の人」の行為の価値が限りなく減少する)のではないか、という考えに至った。
 勿論、名無したち(と彼らに著作権が帰属するレス群)を利用して金銭的・社会的利益を上げようという「中の人」の意図があったとすれば、それに対して好意的な感情を抱くことは出来ないが、実際に参加していた訳でもなく「時刻表」以上の物を書けるとも思わないのでここではこれ以上は述べない。
 以上、まとまりも何もない文章でした。おやすみなさい。
 …そして散々迷ったもののトラックバックを送ってみる。お元気ですか?id:gyodaiktさん。